残日録

世界遺産、反射炉の話

私は65年位前に冶金学を教わりました。その時【反射炉】を学んでいるが、当時は反射炉を見た事もなく頭の中だけでした。今回、茨城県立歴史館に於いて【那珂湊反射炉 -鉄と近代を創る】展が模様されて、冶金屋の端くれとして見学をして来ました。
日本は江戸時代末期ペリー来航後、俄かに国産化による大砲を造る【」を必要としました。鎖国の中、貿易を許したオランダから一冊のヒューゲニン著【ロイク王立鉄製大砲鋳造所に於ける鋳造法】を入手して、蘭学者達は必死で翻訳をして日本の技術を駆使しながら反射炉を製作して大砲迄の鋳造完成に至るのです。この著書は反射炉の概要が多く詳細は記されておらず外観図などを頼りに、想像と試行錯誤の繰り返しで完成させたと言われています。
日本の従来の鉄製造手法は【砂鉄】と【木炭】を原料にして玉鋼(たまがね)を造りました。これは一回毎に窯を壊して取り出していました。盛岡藩の大島高任らは【磁鉄鉱】から柔鉄(銑鉄)を造る事に成功しました。玉鋼から大砲を造ると、硬い為に衝撃で砲身が割れてしまいました。が、柔鉄を使って反射炉で脱酸をすると大量に鋳鉄製造を可能としたのです。
その頃、欧州では既に連続的に鋳鉄を大量に作る技術が完成して大砲の量産化を可能にしていました。一冊の本から大砲を造れるまでに至ったのです。やがて反射炉で培った技術と経験は後の南部・釜石で大量の鉄精錬に成功しています。さらに、この技術は九州八幡村に大々的な官営溶鉱炉へと引き継がれて行きました。
江戸時代、欧米の植民地化を逃れる為に必死で国防に力を入れた多くの先人達、徳川斉昭、島津斉彬、江川英龍、大島高任、竹下清右ヱ門などの横断的叡智が後の明治、大正時代に引き継がれて行ったと思います。当時のアジアでは欧米に食い物にされて日本とタイ国だけが生き残ったのです。我々は先人達の叡智と努力に感謝しなければと思う観覧でありました。

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ヒューゲニン著書

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当時のカノン砲

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展示場の書籍

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盛岡藩士・大島高任氏

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