残日録

信太の郡(しだのこおり) 

躍動する良い季節になりました。1000年前の頃は、土浦から稲敷市辺りを【信太の郡】の地と言われて居ました。今、土浦の人でも信太の郡を知らない人が沢山居ます。霞ヶ浦湖畔伝いに自転車専用のリンリン道路が出来て、その道路を25㎞程、鹿島方面へ走ると、目立たない【浮島】に和田公園が有ります。そこには見事なチューリップ園が有り、春先を告げるのどかな湖畔風景が観られます。

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和田公園のチューリップ

浮島は江戸時代まで【】でした。明治の干拓で陸続きになっているのです。その県道途中に『景行天皇巡行跡』と記された標識が目に入ります。京にいる12代天皇がこの地を行幸するなど考えられないと思っていました。
処が八世紀の【常陸風土記】には、霞ヶ浦沿いの風土を現代風に読み、訳してみると次の様になります。信太の郡。東は信太の流海、南は榎(えの)浦流(うらながれ)、西は毛野(今の小貝川)北は河内郡なり郡の北十里(さと)に薄井あり。古老(ふるおきな)曰へらく『大足(おおたらしおおあし)日子(ひこ)天皇(景行天皇)、浮島の張宮(かりみや)に幸(いでま)ししに水の供(おも)御(の)無かりき。即ち、卜部を遣わして占訪はしめ、所々は窄(は)らしたまひき。今も雄栗の村に有り』と言えり。ここより西の方に高来里あり。古老曰く、『天地の権(はじ)めの、草木言語ひし時に、天より降り来たまひし神は名おば普都大神と称しき。葦原中津国を巡行でまして、山河の荒ぶるかみの類を和平したまふ。大神、化道己にをえて、心に天に帰らむと存ほす。即時に身にそえたまえる器、杖(俗に甲、盾、矛、剣と武器をいう)と、執らせる玉珪とは、ことごとに脱うて、この地に留め置き、即ち白雲に乗りて蒼天の還り玉引き』といえり。風俗の諺に云えらく、『蘆原の鹿は、その味腐れるが若(ごと)く、喫(きつ)らうに山の宍に異にあり。二つの國大に猟すれども、絶え尽くすべくもなし』と言えり。その里の西に飯名社(いいなのやしろ)あり。此れは即ち、筑波岳にあります飯名神の別属(ともがら)なり。榎浦の津(下総から常陸に入る入口)あり。便ち、駅家を置けり。東海大道にして、常陸路の頭なり。所以に、伝駅使等、始めて國に臨むとするに、先ず口と手を洗い、東に向きて香島の大神を拝みて、然して後に入ること得(う)。古老曰(い)へらく、『倭(やまと)武(たけるの)天皇(すめらみこと)、海辺に巡行でまして、乗浜に行き至りたまひき。時に浜・浦の上(ほとり)に多に海苔の由りて『能理浜里の村と名ずく』といえり。乗浜里の東に【浮島村】有り。四面は絶海にして、山と野と交錯れり。戸は十五烟(けむり)(一けむりは100戸位)。里は七十八町余りなり。居める百姓(おほみたから)は塩を火きて業とす。而してして九つの社有りて、言も行も謹諱めり
と、有ります。景行天皇の息子と言われた【ヤマトタケルノミコト】は浮島を訪れて祭事を行い北に向かったのです。彼は蝦夷を成敗して戻る途中で亡くなっています。景行天皇は息子の死を悲しみ浮島を訪れて彼の死を偲び何日も仮宮に寝泊まりして居たと言われます
誠にロマンある話なのです!この様な事を思いながら浮島・和田公園から湖畔を眺めれば陽光を浴びるヨットの群れが美しく遠望出来たのです。

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県道沿いの標識

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景行天皇仮宮の碑

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