2022年の茨城県一人当たりの県民所得は348万円/人、全国3位。全国平均は214万円/人。因みに1955年(昭和30年)頃の茨城県所得は70,450円/人と、全国平均所得104,478円/人、茨城県は全国ビリから5,6番目と言われました。その頃の茨城県はいかに所得が低く貧乏だったかが解ります。
その後、日本経済の成長と県の高い理念,矜持により未来の扉を開いた先人達の努力が花開したと言って良いでしょう。我々は戦後貧しく苦しい時期を過ごしました。昭和30年代、岸・池田内閣の経済政策は花咲き国民はほとばしるエネルギー息吹を経験しました。日本経済は第一次産業から第二次産業へと目覚ましい伸張を図りました。これは茨城県の農業、漁業、林業の他に【産業】は目覚ましい発展が有りました。
自論ながら茨城県発展を振り返れば、砂地からの【鹿島地区工業開発】と林の中からの【筑波学園都市開発】が大きく寄与したと思うのです。鹿島地区工業地帯と筑波学園都市のどちらも岩上二朗知事が関わり、その功績は非常に大きかったと思うのです。
岩上知事は水戸市近隣の農業地帯瓜連町出身の人でした。水戸高校から京大法科に進み剣道の剣士であったと云われます。彼は知事に付いた最初の年、鹿島地区を歴訪して荒れ果てた砂地の農家を訪ねています。彼はその貧しさに驚いたと言います。又、常陸一之宮・鹿島神宮の荒れ果てた様子を見て強い印象を抱いたと回顧しています。県庁に戻り鹿島地区の財政や所得などを調べれば県内でも可なり劣っている事に驚き鹿島地区の発展を堅く誓ったとの事です。まず知事は茨城県関係者の水戸高校や京大卒業生である三井不動産江戸社長、京成電鉄川崎社長、国土総合開発小川社長等などの名だたるメンバーを集めて鹿島地区一帯の見学会を行っています。彼は開発の思いと強い意志を伝えて見学者の協力と賛同を得られたと云われます。
その構想・計画は隠密に進められ、大手ブローカーや大物政治家が動かぬ様に内密に進められました。❶100万㌧タンカーが接岸出来る港を造る❷土地を6—4方式で買い上げる❸企業は大手の三井、三菱、住友を入れる❹地主とは出来るだけ話し合いで決着させる等の目標を立てて、昭和37年(1962年)に港湾開発からスタートして土地の買収を開始しました。開発では国、県、個人の矛盾、相克、対話など限界の中で漸く昭和48年(1973年)ほぼ開発事業は完成しました。
自分は昭和42年(1967年)初めて免許を取り自家用車を持たった年でした。両親にどこかへドライブに連れて行こうと聞けば、すぐさま『鹿島神宮へ行きたい!』と云うのです。まだ国道51号線は全て砂利道で埃を舞い上げながら鹿島へ行った事を思い出します。神宮参拝後、足を延ばして鹿島工業地帯を一廻りして来ました。多くは工事中でしたが広い道路にはダンプカーが埃を上げて行きかって居ました。その後の発展は目覚ましく毎日の様にメディアで騒がれました。地価は高騰し、地権者には多くのお金が入ったと云われます。地主の馬鹿息子達は銀座や新宿へ札束を持ってキャバレーやバー通いをしてタクシーで鹿島に帰るなど話題になって居たのです。
岩上知事は血の滲む様な苦労と仲間の協力を得てほぼ完成を見た頃、妻の難病を機に政界から去って行きました。今、彼の功績を知る一般人は殆ど居なくなりました。豊かになった県は、この事を永く広く県民に伝えて行くべきと思うのです。
戦後の茨城県開発

