今年も、中秋の月を家の2階から鹿島・行方(なめかた)方面に見る事が出来ました。澄み切った月を眺めて居ると子供の頃、ススキと女郎花を花瓶にさして月を観た思い出が蘇ります。土浦に住んで,雲や月を眺めることが多くなりました。
そして鹿行地方に興味を持ち鹿島神宮、塚原卜伝の墓、鎌足神社、根本寺などを訪ね歩きました。芭蕉の【鹿島紀行】も、その頃読んだのです。
芭蕉(桃青)と、曽良,宗波の3人は『月見に行こう!』と、鹿島神宮近くの【根本寺】に【仏頂禅師】を訪ねる旅の紀行文です。
深川・芭蕉庵から『門より舟に乗りて』と、隅田川から舟で行徳に出て、陸路を徒歩で利根川縁りを歩いて布佐まで行き、その夜、『夜船さしくだして鹿島に至る』と、根本寺を目指したのです。が、翌日は、雨の為に月を見る事は出来なかった様です。仏頂禅師は、既に根本寺を離れて生まれ故郷、大洋村の【大儀寺】に移り、芭蕉達は再会を果たして詩を詠んだそうです。
芭蕉は、仏頂和尚を師と仰ぎ、奥の細道の道中でも黒羽の【雲岩寺】に禅師を訪ねています。なぜ、そこまで思うのか! 芭蕉は伊賀上野から姉の甥、桃印を引き取っています。やがて妻は桃印と駆け落ちをしてしまいます。仏頂禅師は寺領の件で深川の【臨川寺】に来ていました。憔悴しきった芭蕉は苦しみの内を仏頂禅師に打ち明けたと言われます。
その後、2人は意気投合して昵懇を深め、芭蕉は、禅の境地を求めたと言われます。禅師も己を高める為に詩歌を詠んで旅を続けています。
この頃、芭蕉は頭を丸めて在家僧になりました。
日本人の多くは月にまつわる詩歌を詠み、庶民はどこの家でも月を愛で楽しみ、十三夜や十五夜にはススキをあげ、秋月を眺め祝いました。子供の頃は、月に『兎が住んで居る』と本気で信じていました。今でも、心には月が存在し、母の様に思う何かが有ります。
『名月を 取ってくれろと 泣く子かな』