土浦市から結城市へ向う道すがら【関城の街】を通ることがあります。その丘陵には、南北朝時代、南朝方についた【関宗祐、宗政親子】の居城した城址が今もあります。大宝沼の北端地には親子の墓が祀られ、その丘からは筑波山の女体・男体山が手に取る様に見渡せ、左手には葦穂、加波、雨引の三山が連なり、右手奥には【小田城址】を望むことが出来きます。茫々、700年の歳月を過ぎ、なおも万古不易の景色と思われるのです。
南朝方の柱石、北畠親房は北朝の勢い増す中、東下し、【小田治久】を頼りに小田城に入城したのです。その間、親房は小田城で有名な【神皇正統記】を書し、【関宗祐】は、さらに手を加えたと言われています。
親房は、『建武の中興』以来、南朝方の重鎮である、白河の【結城親朝】に何度も応援を頼む文書【関城書(かんじょうしょ)】を送ったと言われます。頼りの南朝方【小田治久】も動かず、親房は、ついに小田城を脱して関城の関宗祐、宗政親子を頼ったのです。しかし、重鎮の結城親朝は北朝方へと寝返り、関城は北朝側の総攻撃を受けて陥落、関親子は討死。北畠親房は辛うじて脱出して吉野へ逃れています。やがて南朝は滅び、北朝の時代へと歴史は大きく動きました。
大月桂月氏が言うに『日本歴史に趣味を有する者は、何人も北畠親房の関城書というものを知らるべし』と語っている。
初春の北風を受けて、筑波嶺を眺めれば、1340年代筑波山下で壮烈な歴史絵巻が繰り広げられていたのです。近くには、関東最古と言われる八幡さま【大宝神社】をお参りして帰途に就きました。尚、明治に入り、関宗祐は正四位を、宗政は従四位を送られて名誉挽回を果たしたと言われています。