残日録

劉 連仁(りゅう りょんれん)の話

ロシアのウクライナ侵攻画像から【劉 連仁】の悲惨な人生物語を思い出しました。【劉 連仁】という中国人の名前を知っているでしょうか? 書物を読み返してみました。
第二次戦争の狭間で起きた何ともやりきれない【事件】だったのです。彼は、昭和19年、山東省草泊村の百姓でした。新婚の彼は農作業中に突然、日本軍にさらわれて大連埠頭から門司港に送られています。さらに北海道の炭鉱で労働工として送られて、蟻の様に炭坑作業を強いられたのです。彼は辛うじて【便所の汲み取り口】から汚物にまみれて逃走を始めます。
日本という国が島国である事も知らずに稚内、網走、釧路、札幌と14年間も逃げ回り、漸く、日本は島国である事を確認します。北海道の地に穴を掘り、熊の様に厳寒の穴藏生活をしながら命を繋ぎ、昭和33年の冬、札幌で発見されました。彼は初めて終戦を知るのです。
その後、妻は再婚もせずに夫の帰りを待っていました。新婚の彼女は身ごもり、その子は14歳になっていました。帰国を果たし草泊村で妻・子と涙の再会をしています。この事は中国で大きく取り上げられたと言います。
日本でも同じ様な物語は横井正一さんや小野田寛郎さん達、戦後を外国で生きながらえ帰国しています。戦争では、この様な事が必ず起きるのです。世界中では、この様な戦争悲劇が沢山ある事を皆は知るべきでしょう。
戦争は、やった、やられたの恨みを残し、悲しい物語を沢山作ります。『戦争はおろかだ‼』と、国際が一つになって防がなければならないのに、今、国連は何も果たせないでいるのです。未だに、ロシア、ウクライナではお互い意地の張り合いをしている。誰もが『困ったものだ!』と思いながらも何も出来ない現実があります。ウクライナ人の悲しげな顔を見る度にもどかしさを覚えます。

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札幌で発見される

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山東省草泊村へ帰る

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小野田寛郎さん

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茨木のりこさん

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