残日録

笠間と小野友五郎氏

笠間市は三大稲荷神社で有名です。茨城の中でも歴史ある小さな町です。が、静かで大好きな場所です。日本画家の木村武山、合気道・創始者,植芝盛平、笠間焼の創始,久野半衛門、別れの一本杉、作詞者,高野公男達の故郷なのです。江戸時代には八万石の小藩ながら優秀な人を多く輩出した藩でもあります。
特に、幕末から明治にかけて活躍した小野友五郎の経歴には、もの凄い物語が有ります。少年から和算、測地術を学び、やがて江戸天文方を務める等、頭角を表して長崎の海軍伝習所で航海術を学び、江戸の軍艦操練所の教授に抜擢されて、坂本竜馬などに航海術を教えています。その後、日・米通商条約批准の為に幕府の遣米使節団の一員として咸臨丸で太平洋を運転航海しています。使節団長は勝海舟でしたが、海舟は船酔いが酷く殆ど指揮が出来なかったそうです。航海中の指導者・ブルック大尉は、小野の卓越した測量技術を認めて後々も親交も深めています。

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小野友五郎氏

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左端が勝海舟、右端が小野友五郎

その後、小野は再度、幕府軍艦購入の為に17代米国ジョンソン大統領に謁見して軍艦購入を決めるなど、数々の偉業をなし遂げたのです。彼の功績の中で記憶に留めたい事は、小笠原諸島を日本の領土とする為に尽力した事です。咸臨丸でを運び、測量を実施して領土を明確にしたのです。米・英国は、諸島の領土化を狙い、多くの難くせを付けて日本に来たそうです。しかし、小野達のお陰で日本の領土が認められたのですこの事は、後々の日本にとって大変重要な事でした。
その後、江戸幕府は倒れて明治政府となります。明治政府は、小野に対し、政府に戻る様にと要請しますが、それを断り、民間の産業活動に従事して明治31年,仕事中に倒れて82歳で逝去しています。
今、彼の功績の素晴らしさを伝え様と小野友五郎を伝える会を結成して、全国の活動を行っています。敗者となった江戸幕府方には、多くの賢者達が居ながら、勝者の闇に葬られている不条理な歴史があります。我々の優秀な先輩のお陰で、今があるのです。

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咸臨丸

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小野達が建てた小笠原島の碑

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