師走になって、政治家達の呆れたニュースを聞いて、日本国は大丈夫かと思いたくなります。昔の政治家は日本国の為に身を呈し、身銭を切って善行を行った人達が沢山居た歴史が有ります。
これらに反し、世襲された議員が意識的に巧みな手法で隠し金を創り、個人の懐に入れる話など聞いた事が有りません。国を背負う政治家とは言えないでしょう。又,政治を利用した詐欺師と同類です。
最近、ある講習会に出席しました。常陸武士の様な政治家が居た事に感激したのです。戦後の混乱時期、日本国憲法制定や農政などに大いに尽力した山崎猛氏です。彼の先祖は初代水戸藩の藩主・徳川頼房、二代の光圀に仕え、その後は頼房の八子が水戸藩分家を創った時、家老となり代々家老職を務めた家系でした。猛は、水戸で生まれて小学校まで水戸で暮らし、その後上京、麻布中学、旧制一高で過ごしています。彼が政治家として歩き始めたのは34歳の時でした。その後、吉田茂率いる民主自由党に入り幹事長を務め、国会議長にもなっています。
戦後の設計図とも言える【日本国憲法】の作成ではマッカーサーノートを主軸にGHQとの間では苦労をした様です。ホイットニ―率いる民生局(学者や教授達のメンバー)からは民主主義の何たるかの指導を受け、山崎猛の政治姿勢に賛同していた様です。
やがて芦田内閣は昭和電工疑獄で総辞職すると、民生局は吉田茂を嫌い、山崎首班の推薦に動いた様です。大磯でそれを聞いた吉田茂は単独でマッカーサーに会い二人で話合い、マッカ―サーは『吉田指名』を言っていると吹聴したと言われます。察した山崎は『親分を差し置いて子分が総理になっては憲政の常道に反する』と、野に下ったそうです。しかし、彼は議員でもあり、欲もあり、理想もあったはずです。しかし、全体を見て退いています。
その事を聴いたGHQ民生局員達はがっかりして夫々が本国に帰ってしまったそうです。やがてマッカーサー率いるGHQ内は軍部勢力が強くなり、やがて朝鮮戦争へと突入して行きます。
今、私利・私欲を捨てて公道を歩き山崎猛氏の様に国を思い、行く末を遠望しつつ、信念をもって行動する議員が少なくなってしまいました。
『親分、申し訳わけありません!見つかっちゃいまいました 』 古参子分達。『だから、こんな事バレルと言ったでしょう』新参子分。
『日本には暮れに煤払いをして、新たな新年を迎える文化が有るのです!』と、市井の民