50歳になった時、サラリーマンを退職して東京・芝で会社を興しました。芝の街は晩年の人生における思い出深い処になったのです。会社近くには就職入社式をした昭和電工(株)本社、増上寺や芝公園が有りました。
中でも増上寺は会社を始めたばかりの悩み多き時期に心の支えとなった場所でした。苦しい時や淋しい時に増上寺をお参りして境内をぶらついて来ると,【心】が落ち着いたものでした。その意味では【心の支え】を与えてくれたお寺でした。人は悪路を進む時や苦しむ時に『もういやだ!』と座りたくなる事が有ります。その時【道を歩き続ける力】を与えてくれるモノが【信心】ではないかと思うのです。自分はそう考えて来ました。
浜松町駅から大通りを歩いて来ると増上寺の朱塗りの大門と大きな三解脱門(三門)が見えて来ます。三門には【三縁山】の大きな扁額が掛かり、門を潜れば静かな境内が続いています。『西国の 果てまで響く 芝の鐘』と川柳にも詠まれる大きな鐘楼が直ぐに見えて来ます。ここは徳川家の菩提寺として2代秀忠から6名の将軍が眠っています。さらに皇室から14代家茂に降嫁され、明治10年32歳で亡くなられた【和宮】のお墓も菊の御紋入りで有ります。これらは大殿の裏側にあり、鍵の掛かったお墓の柵から見たことが有ります。
増上寺は浄土宗の寺です。室町時代に茨城県瓜連【常福寺】の了実僧に師事した【聖聴】という僧が1392年、今の麹町貝塚の地に増上寺を建立したと言われます。やがて経ち、徳川家康は関東八国を与えられた時に芝・増上寺の門前に差し掛かり休憩に水を所望したおりに増上寺12代【源誉上人】と出会い人柄や考え方を気に入り徳川家の菩提寺としたと言われます。が、その辺は諸説ある様です。家康は三河の地で一向一揆に遭遇し苦労した経験から庶民に人気のある【浄土宗】を選んだとも考えられます。
それぞれの季節毎に増上寺境内や芝公園はいろいろな趣を見せてくれました。【東京タワ―】を背景にする美しい風景を何度も見ています。遠方から我社へ訪問に来るお客さんも増上寺を拝みたいと良く案内したものです。いつ行っても多くの人達がお参りしており、正に法然が説いた【易行念仏】の寺院と言えると思います。
想い出すのはお世話になった会社会長が亡くなられ【光摂殿】で葬儀のお手伝いをした事や増上寺界隈を歩いたことが懐かしく忘れられない思い出の増上寺なのです。