残日録

徳川と松平

50年位前に埼玉県深谷市に住んで居ました。深谷市は群馬県の県境に在り、利根川を渡れば群馬県に入ります。県境近く群馬県・世良田の地に【長楽寺】という古寺が今も在ります。近いので何度か尋ねました。が、その敷地内に【世良田・東照宮】が有り、何故、東照宮がと不思議に思い住職に尋ねた事が有ります。
その寺の謂れは承久年間の世良田の地に新田義重の四男が住み、家康の遠祖・得川義季もその地に住んで居ました。その地には臨済宗の開祖・栄西の高弟・栄朝が長楽寺を開いて居ます。東国に於ける禅文化発祥の寺でも在りました。【新田の庄】世良田・長楽寺には得川義季の墓が在りました。
得川義季の子孫はその後、流浪、点々として【三河国・松平村】の豪族、松平重信の地に落ち着いたそうです。何代目かの時に松平家に男子が途絶えて得川親氏から婿取りをした処、松平家の家運が栄えたと言われます。時は流れて松平元康(家康)は三河国・支配者の証を得る為に朝廷へ申し出て、1566年【徳川家康】と改名して居ます。これが松平と徳川の二姓の経緯と解ったのです。それまでは徳川と松平の関係が良く解りませんでした。
そして徳川と名乗れるのは御三家の世襲・長子だけで、他は松平を名乗ります。その後、松平姓は一万石以上の家禄を貰う旗本になりました。
徳川家康は関東に入ると得川(徳川)祖先の寺とした長楽寺を重用視して【天海僧正】を住職に任じて居ます。天海僧正は徳川家三代に仕えた大僧正でした。三代将軍・家光の時には命を受けて長楽寺は天台宗に改宗し、【世良田・東照宮】を造営しています。さらに家光は日光東照宮へ社殿を移すなど長楽寺は末寺700余寺を擁する大寺院となり再興されました。
1200年代、醤油の【原型】を創ったと言われる【覚心禅師】も長楽寺で禅の修行をしたと言われます。覚心禅師は和歌山・由良の興国寺から中国・金山寺に渡り、帰国後に近くの湯浅で【なめ味噌】の上澄みから醤油を編み出したと言われて居ます。醤油の元祖者です!禅の教えは個人主義です。悟りは『師一個から弟子一個』へ以心伝心される。当時、彼の名は知れ渡り上皇や天皇の招きを受けて講和を何度も催すなどしても寺などを持つ事はなく、死ぬまで興国寺を離れずに92歳で亡くなって居ます。
江戸政権を手中にした徳川家康は【丸に葵】の紋章です。その頃、徳川の重鎮、三河の本多重次家は【立ち葵】の紋でした。家康から、その立ち葵の紋が欲しいと言われたそうです。が、重次は『立ち葵はやれぬ、葉っぱだけ!』と言い、徳川の葵の紋は葉っぱだけになったと言う逸話が有ります。本多重次は戦場から【おせん】宛てに出した有名な手紙『一筆啓上』を送った家康の参謀でした。本多家の菩提寺は茨城県取手市の浄土宗【本願寺】に在り訪ねた事が有ります。こう云う話も現地を訪ね歩いて繋がる歴史の面白さが有ります。

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世良田の長楽寺

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世良田の東照宮

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徳川家康画

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徳川、葵の紋

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立ち葵の紋

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