残日録

宮沢賢治のこと 

悩み多き24歳の頃、可愛がってもらった大先輩が37歳で早世したのです。この事は脳中にシミの様に焼き付き時々思い出します。彼は岩手・盛岡の出身で宮沢賢治の心棒者でした。良くお酒をご馳走になりながら賢治の話をしてくれました。その頃『風の又三郎を読め!』と言われて読んだ事が有ります。が、方言の多い文章に良く内容が解りませんでした。自分は鉱山に進もうと地質を勉強して鉱山行きを考えたが、不況で諦めた事を話すと、賢治も地質学を勉強して農業に生かさそうと頑張ったそうです。そして農林学校時代、大勢の生徒と一緒に【秩父】を訪れて『日本地質の縮図』と感激したそうです。
暫くして宮沢賢治の弟、清六さんの手記『兄、賢治の一生』の冊子を先輩から戴きました。それは先祖から幼少期、学生時代、可愛いがっていた妹の死、父との宗教対立、文学や詩,俳句などの臨終に至るまでの内容です。彼の一生懸命に生きた内容には身の迫る感動を受けた思いが忘れられません。賢治を生涯悩ませた事は、父との宗教上の対立でした。父は地区の役員をする程、浄土真宗の信者でした。やがて賢治は日蓮宗・法華経に心酔していく事になります。日蓮は法然の易行念仏(経を拝むだけ)を真っ向から否定して法華経の現世利益の考えに賢治は共鳴したのです。法華経の仏は『物を正しく見、正しく考え、全てを見、計り知れぬ智慧とその働きと、人に同情し、物を分け、一刻も怠けず、絶えず善い行いをする』事に賢治は感銘を受けた様です。死後の手帳メモ書きに、あの有名な『雨にも負けず』があったそうです。正に法華経の仏の教えそのものです。彼は農業を通して自分を追い求めた人生でした。南部岩手と云う地は天災が多く冷夏や土地の貧地から農業の難しい土地柄を何とかしようと努力した事が良く解ります。
病床の臨終に立ち会った両親達がそろった時、父は『何か遺言はないか?』と言えば、関係者に託す言葉を述べると、父は『良く解った!良く頑張った!』と誉めたそうです。賢治は皆の方を向いて『俺も、とうとうお父さんに褒められた』と云い、それから少し水を飲んで身体中を自分でオキシフルを付け脱脂綿で拭き『ぽろっと』落ちた時にはもう息を引き取ったそうです。この事もすごい事です!
賢治の最後の絶筆に『病ゆえに くちいん命なり 実りにすてば 嬉しからまし』があります。病で命が朽ち果てて行くとも 稲の実りを見る事が出来たならば どれ程嬉しいだろう。と、最後まで岩手の農業の栄えを夢見て居た一生でした。
賢治は岩手の温泉が大好きでした。自分も岩手の温泉が好きで花巻,鶯宿,夏油,鉛,つなぎ,台,大澤,八幡平,志度平,網張など、など切りがなく歩きました。賢治の記録には鉛,大澤,花巻,志度平などが有ります。その中の鉛温泉・藤三旅館、大澤温泉・湯治屋は自分も思い出深い温泉でした。
先輩は37歳で未世へ旅立ちました。奇しくも賢治は37歳で死去し、何か因縁めいた忘れられない記憶なのです。

宮澤賢治

法華経の教え―雨にも負けず

藤三旅館の立ち湯

 

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